自然界とは秩序と無秩序、安定と不安定が混在する世界です。混沌とした世界からいかにして秩序や安定が生まれるのか。これは自然科学において重要な研究対象となっています。例えば水蒸気中では多数の水分子が乱雑な運動を行っていますが温度を下げていくと水蒸気は水になり最後は氷となり規則構造が現れます。また雪の結晶のように氷とは異なる多様な安定構造も存在します。一方、生物界に目を向けると全く異なる秩序や安定に出会います。人間の場合、精子と卵子が合体した受精卵はその後細胞増殖を継続し幼児へ、そして成人へと連続的に成長します。短期間の観測では安定構造に見えます。しかし長期間の観測ではそうではありません。それでも人間としての組織や機能は維持されており、動的な秩序、動的な安定と呼べるような状態が実現されています。明らかに物質の世界の静的な秩序や静的安定とは異なっています。
私は元々多粒子系を専門とする物理学者です。しかし、脳にも強い興味を持ち、機会があれば生命研究にも従事したいと常々考えておりました。そして1995年頃、たまたまMolecular
Biology of the Cellという本を読んでいた際、細胞性粘菌(Dictyostelium discoideum)という生物のライフサイクルの図にめぐり合いました。その際の驚きは今でも鮮明に覚えています。
細胞性粘菌は単細胞アメーバの1種です。しかし驚くことに飢餓状態になると多数が集まり1個の多細胞動物(移動体と呼ばれる)のようになり動き回ることができます。その後植物体の形となり、先端部分に胞子が作られます。地面に飛び散った胞子は発芽し、元のアメーバに戻ります。しかも細胞凝集から胞子形成までが24時間以内に終わるという特徴があります。
脳は多細胞動物にしかありません。しかも脳だけの生物は存在しません。バラバラの細胞にし、再構成することもできません。このような特徴は脳の仕組みの解明を非常に困難にしています。一方、細胞性粘菌の場合、移動体の先端部分は脳のように機能しています。しかも1個の移動体を2分割すると独立した2個の移動体となり、2個の移動体を合体させると1個の移動体となるという特徴があります。合体、分割の過程では脳機能を担う部分も再形成しています。移動体中の全粘菌アメーバは遺伝情報が同一であるクローン集団でもあります。上記のような特徴から細胞性粘菌は脳の基本メカニズムを研究できる最適なモデル生物でないかと考え、研究を始めました。
物質の世界では同一種類の粒子であっても1つの系を構成する粒子数が大きく変化すると性質が全く変わるということがあります。したがって系を形成する細胞数を10倍から1000倍も変えられるという細胞性粘菌の特徴は構築する数理モデルの検証に最適な生物の1つということが言えます。
細胞性粘菌を足掛かりとした生命研究のスタートはNEC基礎研究所在職中です。その後2003年に立命館大学に移り、2019年に退職、現在は名誉教授となっています。退職後の2年間は特任教授を務めました。立命館大学の研究室では多くの優秀な学生に恵まれ、後々まで残るような多くの研究成果をあげることができたものと考えております。本ホームページは我々の研究成果を詳しく紹介する場として立ち上げています。学術論文の場合、ページ数の制限もあり説明には限界がありますがそのような制限のない本ホームページでは出来るだけ分かり易い説明を心掛けております。
専門外向けに2編の邦文解説を書いておりますのでご参照下さい。掲載からだいぶ時間が経過していますが内容の変更はありません。
(1)長野正道、「粘菌に見る生物の生存戦略とその工学的応用の可能性」
(『応用物理』、70巻8号、応用物理と境界領域特集号、pp.941-947, 2001年)

(2)長野正道、「粘菌が教える新しいリズム同期化法」
(『日本物理学会誌』、57巻11号、pp.826-830、2002年)
